SNUG Journal

「SNUG Journal」は毎週金曜日に発行! 対話のプログラム設計や教育、ファシリテーションを行う 「対話の場づくり屋 SNUG」の活動レポートや代表の考えなどを発信します。

「SNUG Journal」は毎週金曜日に発行!
 対話のプログラム設計や教育、ファシリテーションを行う 「話し合いの場づくり屋 SNUG」の活動レポートや代表の考えなどを発信します。

【第115号】対話の場づくりとバウンダリーの関係とは!?「わたしはわたし読書会」、開催!

「SNUG Journal」 へようこそ!

 「公正な対話の場づくり」と「対話の主流化」を理念に掲げ、対話の場を専門に設計・運営する団体「対話の場づくり屋 SNUG」の代表長谷川友子が、SNUGにまつわる情報や活動内容、関連するトピックを毎週金曜日ごろにお届けするジャーナルです。

 今回は第115号。今週は、先日実施されたSNUGインターン企画と、最近長谷川が考えていることをひっそりと書いてみます。

 今週もぜひお読みくださいね!

 

インターンりるはさんによる「わたしはわたし読書会」が実施されました!

 『わたしはわたし。あなたじゃない。10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』という本がSNUGインターンの課題図書です。

 今年の4月からSNUGでインターンとして対話の場づくりを学ぶりるはさんは「他者に影響されすぎない自分になりたい」と話していました。

 そこで、心の境界線である「バウンダリー」の学習を兼ねた読書会という対話の場づくりを通して、りるはさん自身が対話の場づくりの流れ、コーディネーション(対話の準備、事前の調整、設計)、ファシリテーション(対話の場のサポート)、リフレクション(振り返り、次の目標設定など)を学ぶ機会としました。

 ファシリテーションの学習会の様子。

photo by yaneranian

「わたしはわたし読書会」読書会の実際の様子をお届け!

 さっそく、当日の様子をお届けします!りるはさんは早めに会場に入り、自分でつくったプログラムを確認します。

 今回は、その場で本を読み、その後対話するスタイルの読書会です。ファシリテーターはりるはさんが務めました。

まずは該当の章を読みます

読んで感じたことや考えたことを対話します

 チェックインをしたあとは、「苦手な子を誘う・誘わない どう決める?」「誰とでも仲良くしなきゃだめ?」「私の夢、私の進路、どうして応援してくれないの?」などのテーマを学び、対話しました。

 この企画の振り返りはこれから。「確かに自分はやったんだな」と思えるよう、しっかり振り返りましょう!

 

「対話の場づくり」と「バウンダリー」

 …やや韻を踏んでいる気もしますが、それはさておき(笑)。

 私長谷川は、一人の人ととしてはもちろん、ファシリテーターやグラフィッカーなどの対話のつくり手にこそバウンダリーという視点が必要だと考えています。

 なぜなら、バウンダリーという視点がないと、ファシリテーターやグラフィッカーは参加者からの反応に一喜一憂し、結果的に振り回されてしまいかねないからです。

 その対話がよかったか、意味があったのか。これは、シンプルなようでとても難しい問いです。だからこそ、対話のつくり手は参加者の声にその答えを見出したくなるのもわかります。

 例えば参加者から「おもしろかった」「楽しかった」という肯定的なフィードバックがもらえた対話を「いい対話」とし、「なんだかモヤモヤした」「がっかりした」と言われると「ダメな対話」として捉えたくなる。

 もちろん、対話のつくり手が参加者の声から学ぶものはたくさんありますから、フィードバックを受け取ることはとても貴重で大切な機会です。

 また、主催者が参加者の満足度を測ったり、対話の実施後に参加者の声を聞くことはとても大事なプロセスだと思っています。

 しかし。対話のつくり手、例えばファシリテーターやグラフィッカーが、参加者からの評価や感想に過度に頼ったり、影響されたりすることはあまり健康的でない、というのが私の考えです。

 とはいえ、「だからなんでもアリだよね」とも全く思っていません。大事なのは、自分(たち)の意図を持つこと。

 自分自身や実施するチームで、意図や計画をしっかりと共通し、考えることで対話についての検証が可能になるのです。

 そのための一歩として、まずは対話のつくり手にこそ、このタイトルのとおり「わたしわたし。あなたじゃない。」という視点を持つ学習と練習の機会が必要なのかなと思っています。

 

「意味があるって思うのも怖いし、意味がないって思うのも怖い」長谷川の雑感

 ある友人と対話の場について話していたときのメモの抜粋です。

 彼は「対話の場は、僕は正直怖いんだよね」と言いました。彼のものの味方、捉え方、いま取り組んでいる彼自身の課題がゆえに、対話の場では安心できない、と。

 「対話が怖い」という言葉に、私はすっと力が抜けるような気持ちがしました。背景は違えど、実は私も、対話が怖い。対話することも、対話の場をつくることも、私は怖い。怖いし、もっというと、正直、本当に意味があるのかは私もわからん。ファシリテーター一人ができることには限界があると思う。

 だとしても。対話の場づくりに意味があるのだと信じきることも、対話の場なんて意味がないと思うことも、私にはしっくりこない。

 私はただやりたいんですよね。やってみたいと思っている。なぜか対話に取り憑かれている。

 意味があるかないかは、後世に決めてもらいましょう。

 

結び

 さて、今週のSNUG Journalはいかがでしたか。土曜日の発行となってしまいましたが、無事にお届けできて嬉しいです。

 最近はずっと、SNUGがしていること、したいこと、してきたことの棚卸しをいろんな人に手伝ってもらいながらしています。SNUGをもっと知ってほしいし、やってみたいことがあるからです。

 新しい現場の準備もしています。これからどんな時間を過ごせるのか、今からとても楽しみです。

 来週もSNUG Journalでお会いしましょう。お読みくださり、ありがとうございました!

2026年7月25日土曜日
対話の場づくり屋 SNUG
代表 長谷川友子 

【第114号】SNUGグラフィック部第1回目のイベント実施!内部の活動に力を入れるワケ

「SNUG Journal」 へようこそ!

 「公正な対話の場づくり」と「対話の主流化」を理念に掲げ、対話の場を専門に設計・運営する団体「対話の場づくり屋 SNUG」の代表長谷川友子が、SNUGにまつわる情報や活動内容、関連するトピックを毎週金曜日ごろにお届けするジャーナルです。

 今回は第114号。今週は、最近実施しているSNUGメンバー企画と、メンバー企画に力を入れるワケについてお届けします。

 今週もぜひお読みくださいね!

 

SNUGグラフィック部によるグラフィック共有&対話会が開催されました!

 SNUG内にグラフィック部が発足してから数ヶ月、今週はグラフィック部主催の内部向け企画が実施されました。

 中心となったのは部長のあかねさん、副部長のぽよさん。企画書から振り返りまで二人が実施しました。また、この企画実施のために、二人はファシリテーションをトレーニング。当日はファシリテーターを担当しました。

ファシリテーターにチャレンジ。

 グラフィック部の二人から、この企画への思いを聞きました。

あかねさん:グラフィックがどこでも当たり前に行われるようになってほしい。でも、今はグラフィックをしていて「何それ?」「わ〜すごいね」「私にはできないよ」と特殊がられてしまい、寂しい。グラフィックの認知度が上がっているけれど、まだまだ足りない。この企画を通して日常の一部にグラフィックが取り入れられたらと考えている。

ぽよさん:グラフィックは技術であるにもかかわらず、なんとなくでできるもの、というイメージがあるように感じます。公正な対話の場をつくるグラフィックのためには、「なんとなく」では不十分。グラフィックが技術だと適切に認知されてほしいという願いがあります。

 当日はSNUGメンバーの日々のグラフィックやノートを持ち寄り、記録の共有と対話を実施。まずは実際のグラフィックをみんなで回し見しながら観察します。

 ファシリテーターを務めたグラフィック部の二人は、見て評価するのではなく、自身がどんなことを感じ考えたかという観点で見るよう呼びかけました。

ほかの人のグラフィックを観察

 次は対話の時間。今回の問いは「そもそもグラフィックってなんだろう」。

 SNUGでグラフィックを考えていく上で、グラフィックの意義や可能性を問い直し、考えます。

 対話ではいろいろなことが話されました。

 例えば、技術が進めば、対話している横でAIがグラフィックを生成するかもしれない。それはグラフィックレコーディングと呼べるのだろうか。今はAIで生成されたイベントのポスターやビジュアルへの違和感はどこからくるのか。グラフィックは成果だけでなくその行為も重要ではないか、技術があるとはバリエーションが増えることかもしれない、などです。

 最後は付箋でチェックアウトをしてこの企画は終わりに向かいました。

チェックアウトの付箋。

今週末は読書会企画が開催されます!

 今週は企画が二つあります。今週日曜日は人と人との境界線、「バウンダリー」を考える読書会がSNUG内部で開催されます。こちらはSNUGのインターン生が企画とファシリテーターにチャレンジ中。

SNUGが内部企画でガチるワケとは…?

 企画やイベントについて、「まずやってみよう」「失敗から学べることがある」という言葉をよく聞きます。しかし、私はそうは思わないんです。

 むしろ逆で、いきなり飛び付かず、まずは基礎を学習する必要があると思うし、その上で意図を持って実施し、振り返ることで学べることがあるという考えです。

 だからSNUGでは、メンバー内部の企画にも常にガチです。新年会からイベントまで、全て企画書をつくり、企画書をもとにタイムテーブルをつくり、タイムテーブルをもとに資料をつくり、そしてメンバー自らファシリテーターを務め、企画書と照らし合わせた振り返りを実施します。

 私は、そうして初めて見えてくる対話の場づくりの難しさと楽しさがあると信じています。

 

「令和8年度札幌市子ども議会」のファシリテーターと、ユースファシリテーター事前研修の講師を務めます!

 札幌市子ども未来局主催の「令和8年度札幌市子ども議会」のファシリテーターと、子ども議員の話し合いを支えるユースファシリテーターに向けた2日間の事前研修の講師を担当します。

 すでに応募期限は過ぎてしまいましたが、とても面白い事業ですのでぜひ知ってもらえると嬉しいです。

 今年度は子ども議員、ユースファシリテーターとともに、どんな時間をご一緒できるのか、今からとっても楽しみです。

もう期限は過ぎてしまいましたが…!

結び

 さて、久しぶりの通常回。今週のSNUG Journalはいかがでしたか。

 昨日、はてはブログのサーバーがダウンしていたことはご存じでしたか。ジャーナルをお届けできるか気がかりでしたが、無事復旧したようです。ちょっと焦りましたが一安心…。

 札幌も暑くなってきました。我が家は日当たりがよく熱を溜め込むので、冬はとっても快適ですが、夏はちょっと…タイヘン。国旗破壊罪とかマージでどうでもいいから、気候変動や貧困是正や平和に向けた議論してほしいです。

 凄惨な世界情勢、社会情勢に眩暈がしそうですが、日々、絶望しないで立て直したい。

 さて、来週もここSNUG Journalでお会いしましょう!

 

2026年7月17日金曜日
対話の場づくり屋 SNUG
代表 長谷川友子

【開催レポート】<後編>「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」レポート

はじめに

 こんにちは。対話の場づくり屋 SNUGの代表長谷川友子です。このレポートでは、SNUGのオリジナル企画「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」の様子や背景をお届けします。

 長いので、今回は全編、後編でレポートをお届けします。

unitsnug.hatenablog.com

 

「対話は一体どこにある?」byぶんぶん

 当初は「意義ある全体共有を目指して」という発表を予定していましたが、発表をつくる中で、タイトルを「対話は一体どこにある?」へ変変更したぶんぶん。

「対話は一体どこにある?」という問いまでの道のり

 当初のタイトル「意義ある全体共有を目指して」の理由から説明します。

 僕は教育を学んでいますが、授業などの教育の現場では、グループで活動や対話をしたあと、グループごとに活動した内容を代表者が参加者全体に共有する時間がよくあります。

 そういう場面で、代表者がグループで話したことをまとめてしまうと「私が言いたかったことが代表者にきちんと伝わっていなかったのだな」「自分の意見がまとめの中に反映されていないな」と感じるときがあります。

 だからこそ、全体共有をするときの発表者や代表者はとても重要な立場だと思っています。代表者がグループメンバーの意見を潰してしまったり、多数派の意見にまとめてしまったりすると、それまで対話していた中身が無駄になっているようにも感じるからです。

 そういうわけで、「グループ活動の全体共有はなんのためにあるのだろう?」と考えるようになりました。

 実際に、授業でグループワークを実施している二人の先生にグループワークの全体共有の意義を訊いてみました。

 A教授は「一人で考えるだけでは思いつかなかったことを共有してほしい」と言いました。確かにそうだな、と思いました。B先生に訊いてみると「対話をしていたら『これは伝えなくてもいい』ということが出てくるでしょう。そういうことを取捨選択してみんなに伝えてほしい」との回答がありました。

 これらを聞いて、僕は「グループ代表」としての発表を、彼/彼女、要は「個人としての考え」として発表してはどうかと考えました。

 グループの代表として話すとなると、意見を整理したりまとめるというニュアンスが出てきてしまいますよね。だからこそ、あくまで個人の意見を発表する仕組みになったらいいなと思っています。

 これらは、ファシリテーターの問いかけなどで実現できる部分かと思います。ファシリテーターが「グループ代表として発表してください」と呼びかけるのではなく、「グループでの対話を通じてあなたが考えたことを共有してください」という形で全体に意見を発表・共有することが可能です。

対話は一体どこにある?という問いが生まれるまで

 先日、中学校の授業見学をしました。この体験がタイトルが変わったきっかけです。

 見学した授業の中でも、グループワークの時間がありました。「この問題を考えてみよう」という感じのグループ対話を見学しました。

 その後、その授業に関わる先生とお話しできる場がありました。その先生の返答によって、僕の考えは大きく変わりました。

 僕からの「どうして授業内で対話の場を設けているのですか」という問いへの先生の答えは「グループをつくるのは生徒の考えを均すため」というものでした。

 はっきり意見できる人の考えが、はっきり話せない人にも伝われば、グループ活動をしたあとはみんな同じ土台に立っている、つまり進んでいる人に合わせるように、進んでいない人を追いつかせるためにグループの活動を設けていると知ったのです。

 僕は正直ショックでした。

 小学校、中学校…とグループ対話がある授業を受けてきました。これまでの学校の授業は、対話や議論の場は多かったけれど、なんだかしっくりこないな、ファシリテーターがいる対話の場はすごく気持ちいいのに、授業ではそうならないのはなんでだろう、という疑問を感じていました。

 でも、「生徒の考えを均すため」という先生からの答えを聞いて、僕が授業で感じていた対話の違和感はある意味正当で、授業は僕が考える対話、意見を持つのが苦手な人も、得意な人も、みんなが話しやすい場とは違うんだと気づいたんです。

 実際は教師としては授業のためのグループ活動なわけで、ゴールがあります。授業の目的を達成するために、生徒の中で置いていかれている人を出さないためのグループ活動だったということです。

 僕は、意見を持つのが苦手な人も得意な人も、みんなが話しやすい場をつくることが大事で、そのためにサポートするのがファシリテーターだと思っています。

 ファシリテーターとして場づくりを学ぶことが、教師としての授業の場でも、聞くことや問いかけを意識してよりよい対話をつくっていけることにつながるのではと思っていました。 

 でも、そもそも授業の中での対話は、自分と考えていたものと違ったのかもしれないという経験でした。

対話と呼ばれるものたち

 「対話が意味ない」みたいな誤解は最近よく聞くと思います。ここで思うのが、「意味ないよね」と言われている対話は、果たして本当に対話なのか、ということです。

 もしその対話が、主催者の意思がマシマシで、参加者同士が話すことよりも、話すことによって得られる結果のほうが大事というものだとしたら、参加者にとって対話が面白くないと感じることになりますね。

 そもそも、学校は評価される場です。最終的に点数をつけられる場である授業で本音は言えないのかなとも思います。

 本当のことを話すということは、「違うかもしれないけれど」「これを言っちゃっていいのかな」みたいなことも発言に入り込むということですよね。

対話の場をつくるのは誰?

 対話、対話とさっきから言ってきましたが、対話の場をつくるのは誰でしょうか。

 僕は、授業が先生が生徒の足並みを揃えるという意図の場をつくっているから、生徒全員の気持ちのよい場になっていないのではと考えてきました。

 しかしよく考えると、授業でも、参加者一人ひとりが対話ってなんだろうと考え、人との話し方や聞き方を学んで理解していれば、参加者から気持ちのよい場をつくることはできるかもしれません。

 僕が最初に全体共有の意義について考えていたときに、代表者が個人の意見として語ることで、他者の意見を潰してしまわないようにしたいということを発表しました。主催者やファシリテーターがいなくても、個人から、参加者から対話の場をつくっていくことができると思いました。 

 今の小学校、中学校では授業の中でプレゼンをつくり発表するという機会は多いと思います。一方、対話の技術は学校教育の中で学ぶ機会が全然ありません。

 僕もファシリテーターに関心を持ってから、話しの聞き方、グランドルールなどの対話とその場づくりの技術について知りました。対話の技術は子どもたちにも必要だと思いましたし、話の尊重の仕方、話の聞き方など対話の技術を持ち込めば、生徒から対話の場をつくっていけるのかなと思いました。

ぶんぶんの野望

 最後に僕の野望、「対話を内側から広げていく」ということについてお話しします。

 授業は、「知識を持っている先生」から「知識を持っていない生徒」へ問う発問型であるということは今後も変わらないのかなと思います。

 でも、発達段階に応じて変わってくることもあります。小学校、中学校では身につけなくてはいけない知識があるから発問型傾向が強い一方、大学などになると「答えを知らない」教師が「答えを知らない」学生に問いかける問いかけ型の授業にも変化します。 

  生徒一人ひとりが対話の技術を持っていれば、授業内で、先生の意図や意向がすでにあったとしても、よりよい対話の場をつくることができるはずだと思います。

 答えがないことを話し合う側面がある授業などで、小さい子どもたちが対話について学んでいくことができれば、生徒側から対話を広げていくことができます。これが「内側から対話を広げる」ということです。

 これが僕の現在地です。皆さんはどう思いますか。

 

「みんなにとって対話と会話は長期的にみて、互いに必要」byえり

 SNUGに昨年度の終わりに入ったえりさん。えりさんは、自身の経験から、対話と会話とその重要性についての発表を行いました。 

対話と会話の違いについて

 SNUGでは、対話を「ある一定の目的に向かって意識的に集い、話し、聞く営み」と捉えています。

 一方会話とは、「カジュアルなおしゃべりや、明確なゴールを持たないやり取り」です。これはネットからしっくりきたものを引用しました。

 対話は重要だと言われるようになりましたが、対話と会話については、それぞれを独立して考える風潮を感じています。

 でも私の考えでは、対話と会話は真逆ではありません。別の部分と異なる部分がそれぞれあると思います。

 対話と会話、それぞれどんなときに必要なのでしょうか。自分の言葉で説明するのは難しいと思いましたが、私なりに考えてみました。

 対話は問題(対人関係でのトラブル、意見のぶつかり合い、社会的な問題etc)が起きた時に特に必要となります。真面目な場面もあれば、楽しいこともあります。

 会話は、関係性の維持、仲を深める、リフレッシュなどのために必要だと思います。でも、対話にもこのような要素があります。重なる部分もありますね。

 では、対話と会話両方の必要性についてはどうでしょうか。

 私たちは日々お喋りをしています。それに、SNUGの対話の中でも、集った参加者を知るための時間であるチェックインや、(SNUGではあまりしませんが)ワークショップのアイスブレイクなどは、対話の中にある会話的なところかもしれません。

 会話は、相手の状況を知ることができ、関係性を深められるからこそ、よりよい対話にもつながるのではと思っています。

みんなにとって対話と会話は長期的にみて、互いに必要だと思う

 まず、「みんな」って誰のことか。私は、みんなとは「対話している(するべき)当事者」と「その周りの人たち」のことだと考えています。

 対話の当事者にとって、対話と会話をすればお互いのことを知ることができ、解決にもつながります。

 加えて、当事者が対話をできていない場合、その対話ができていない弊害は、周りの人たちも巻き込むのではないかと思っています。

 これは私の体験に基づいています。ある知り合い二人がお互いに不満がありながら、あまり仲よくない時期がありました。

 その時期に、お互いが自分の状況や思いを相手に伝えるのではなく、周囲の人に「あの人にこれを言っておいてよ」とお願いしたり、二人の喧嘩の仲介を頼んでいる姿を見てきた経験があります。

 周りの手を借りることは、悪いことではありません。むしろ手段の一つです。

 一方で、その二人が日頃から会話や対話をしていたら、当事者だけで解決できることもあったのではと思うんです。

 だから私は、対話や会話は当事者だけのものではなく、その周りの人たちにも関わってくると思っています。

 次に「長期的に」というところです。これは言い換えると、「日頃から」という感じです。

 相手の性格やテンションや体調など、その全部を一回の対話や会話で知ることは難しいですよね。これらは常日頃から、何回も会話や対話をしているからこそわかるものです。

 これにも私の体験があります。私の父は単身赴任で、一緒に住んでいる期間は私の半分くらいです。私はある日、父と大喧嘩をしてしまって。単身赴任であまり関わりを持てなかったことは仕方ないこととはいえ、もっと日頃から父と会話や対話をしていたら喧嘩に発展しなかっただろうし、喧嘩になったとしてもここまで大喧嘩にはならなかったのではと思いました。

 もっとお互いに話すしていれば、お互いのことを知ることができて、食い違いにつながらなかったのかな、と思っています。

対話と会話の関係

 私は以下の図のように、会話があるから対話ができると感じています。

 このシーソーの図のように、対話も会話の重要だから、どっちかがなくなったら傾いて、成立しなくなってしまう。対話も会話もどちらも同じくらい重要です。

 以上のことから、私は「みんなにとって対話と会話は長期的にみて、互いに必要だと思う」と考えています。

 

「対話と対話のリスク」byもも

  SNUG DAY常連、前回のSNUG DAYの発表からまた考えが深まったももさんからの発表です。

前回の発表のおさらい

 前回のSNUG DAYで、トーキングサークルという対話に参加したことをきっかけに、「いろんな対話が知りたい」という発表をしました。その発表では、これまで私が参加してきた対話とトーキングサークルの違いについて感じたことを整理しました。

 そのあたりから、対話は考えを深めるだけではなく、人が人を支え合う側面もあるのかもと思っていました。

 人と人が支え合うってなんだかケア的だな、と思っていましたが、そのときは「ケア」という言葉の定義はあまり知らず、イメージとして捉えていました。

ケアってなんだろう?

 ケアってなんだろう、知りたいなと思って『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』という村上靖彦さんの本を読み始めました。

 この本について説明します。人はお互い支え合い、ケアを与えるしケアを受け取り合う存在で、ケアがあった上で自立が成り立っている。でも、ケアをし合う中でも傷ついたり、傷つけたりすることってある。その背景には何があるのかな?ということが書いてある本です。ざっくりした説明ですが…。

 この本の中に、ケアとは何かということが4つにまとめられていました。

(1)ケアは〈生存することをサポートする〉
(2)ケアは〈途絶えそうな関係をつなぐ〉
(3)ケアは〈小さな願いを聴き取り、実現する〉
(4)ケアは〈経験と願いを語る環境を整える〉*1

(1)生存することをサポートする

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成

 これはご飯を食べるとか睡眠がとれるとか生存に関わることに加えて、「保清」と呼ばれる身体をきれいな状況に保つことも含まれるそうです。

 また、子どもの居場所という文脈だと、失敗しても帰ってくることができること、ぶつかっても大丈夫な人がいることも含まれるそうです。

(2)途絶えそうな関係をつなぐ

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成

 病気や障害など、社会的な不正義によって排除された人たちは、自分の気持ちや言いたいことを言えなかったり、届かない場合があります。そういう人たちが世界とつながること、声をかけたり、その人の言葉をなかったことにしないこともケアだと書いていました。

 「誰もコミュニケーションをとろうとしなくなったら、意思を伝えられない人は世界の中で孤立する」と書いてあって、コミュニケーションしようとすることもケアだと書かれています。

(3)小さな願いを聴き取り、実現する

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成

 病気や障害がある人はどうしても「治療を続けるか、やめるか」みたいな大きな選択を迫られることが多いです。この本には、大きな意思決定とは別の、日常生活の中での願いごとを実現することもケアだと書かれていました。

(4)経験と願いを語る環境を整える

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成

 本には「自らの傷や孤立を語ることができる場をつくることも、願いを語ることができる場を作ることもケアとなる。」と書いてます。私は、「これが辛かった」「誰もわかってくれない」「本当はこうしたい」「生やすくしてほしい」などと語ることができる場をつくることもケアと呼べるのかもと考えました。

対話とケアの関係

 この四つの説明を読んで、私は全体的に対話的だなと思いました。

 特に4つ目の「自分の傷や孤立を語ることができ願いを語ることができる場」というのは対話の場そのものとも捉えられます。

 自分の傷や孤立、願いを語ることができるということは、私が思う理想の対話だなと思いました。

 以前から「対話ってケアっぽいな」とぼんやり思っていたことが、この本を読むことによって「対話の場はケアの側面がある場なんだな」と確信に変わりました。

対話の場とケア、ケアと暴力

 本の中に、「存在ができなくなることも、関係が途切れることも、願いをもてないことも、声が聴き取られないことも傷だ。つまりケアには暴力へと転じる可能性が内在している。」と、ケアには暴力に転じる可能性があるということが書かれていました。衝撃でした。

 確かに、介護や福祉施設などのケアの場でも、支援者による暴力や虐待などが起きていることはニュースでも聞いたことがあります。

 ケアって「いいこと」のように聞こえます。でもその中にも暴力の可能性があることに私はうわ…と鳥肌が立ちました。

 先ほど私は対話の場もケア的な側面があるとお伝えしました。対話にケア的な側面があるということは、対話の場も暴力が起きる可能性を秘めているのではと思いました。

 例えば、話を聞いてもらえなかったり、無意識な差別発言を受けたり、対話のいろいろなところで傷が生まれています。

 辛いと打ち明けられたのに「みんなそうだから仕方ないよ」と言われてしまったら「わかってくれない」「せめて聞いてよ…」と思ったりとか、「女性なのにすごいね、若いのにすごいね」みたいな無意識な偏見による発言があったら、尊重されていないと思いつらくなることもあります。

 この本を読んで、対話の場はケアを与え受け取りあう場なのに、傷つき傷つける場にもなりえるんだなと考えました。

対話と誤解、対話とリスク

 私の周りには「対話することは良いことだ」という風潮があります。もちろん私も対話はいいものだと思っています。だからこそこうして対話について考えているわけです。

 でも、対話の場にも暴力の可能性が含まれていると考えると、もう少し対話自体を慎重に考えたほうがいいのかもしれないと思います。

 対話の場がいいものと見なされて、その結果対話がキラキラしたイケているものになっていないか。「対話はいいものである」ということに覆われて、対話の影の部分、暴力に転じる可能性や起こりうるリスクについて語られていないのではと思っています。

 重ねてになりますが、私は対話の場はいいものだし、必要なものだと思っています。だからこそ、対話の場でおこるリスクも考えていきたいです。

 SNUGは「対話は技術」ということをずっと言ってきていました。対話を技術と捉えるということは、対話はもっとよくすることができるということです。

 対話を考える、学ぶことで、対話をよりよいものにしていきたい。よかったら一緒に考えていきませんか?

 

「グランドルール再考」 by 長谷川 友子

 いろいろな場の場でグランドルールが設定されることが多くなっています。どんなグランドルールがよいルールで、どんなルールは避けるべきでしょうか。こうした議論があまりないなと思っていたので、皆さんと考えるきっかけにしたいです。

発表の背景

 対話の場をつくっている中で、「そもそもグランドルールは必要ですか」「ルールは人を縛るものだからないほうがよいのではないか」というような声も聞いてきました。

 でも、私はグランドルールを「人を縛るもの」とは思っていないんです。グランドルールは対話する上で必要不可欠なものだと思っています。

 今回はこのグランドルールについて、詳しく考えていきましょう。

ルールへの誤解

 ルールといっても、いろんなものがありますよね。ルールについて、私の経験からは以下のように思う人が多いという印象があります。

・ルールとはある人たちの命令である
・ルールである以上、従わなければいけない
・ルールは人をしばるものである

 誰かの命令がルールのように変わったり、従わなければならないと感じたり、ルールによって窮屈に感じることは多いと思います。でも、本来のルールの意義は別なのではと思っています。

 私は、ルールはそのコミュニティに関わる人、特に立場が弱い人への権利が保障されるためにあるべきだと思っています。そのコミュニティのふるまいや正しさは、特定の人でなく、ルールによって決められたほうがよいと思います。

 ルールによってその場が成り立つということは、権力を持った人や誰かの気まぐれや意向に左右されないということです。

 ある人が正しさや振る舞い方を判断するとなれば、関わる人はその人にどう見られるのか、いつどんなことを言い出すかわからず、怯えたり、顔色を窺ったりして過ごさなくてはいけません。

 だから、権力がある誰かの気まぐれや気ままさ(恣意性)を限りなく抑制するためにはルールが必要であると思います。

対話の場のルールとは

 よって、対話の場においても、ファシリテーターをはじめとする権力を持った人の気まぐれや好みが限りなく抑制されるようなルールづくりを目指すべきだと思います。

 そもそも、対話には「本当のことを言う」というルールがあります。これは当たり前と捉えられ意識されないかもしれませんが、とても大事なことだと思います。

 例えば、対話が終わったあとで「実はあれは全部嘘を言ったんだ」と言われた場合、対話の場そのものが揺らぎますよね。

 対話は「ある程度本当のことを言っている」という前提に基づいています。

 ただ、この「本当のことを言う」というのが、現実問題難しい。人と人との間には利害関係もありますし、本当のことを言うことがリスクや脅威となる場合もあります。

 だから対話の場づくりというアプローチがあるのだと思います。

 私は、対話におけるルールとは「参加者の権利を守るものでなくてはならない」と思っています。でも、対話の場でなくても、そもそも人は本当に思っていることを言う権利がありますね。もちろん、ヘイトスピーチや差別は論外ですが。

 対話の場のグランドルールは参加者が本当のことを言えるものでなくてはいけないし、本当のことを言うことで誰もが不利益を被らないようなものでなければいけません。

 もし対話の場の中で不利益を被ったら、助けを求めたり、「それは不正義だ」「それはルールに違反している」と指摘したり、周囲に認識されたり、助けを求められるようなルールであるべきです。

 言われて嫌なこと、許せないことは人によって異なります。ただ、それがあってはならないことであったのかどうか、誰かの感覚ではなくルールによって認識され、助け合える仕組みであればと考えています。

 だから、対話の中で何かトラブルや不正義が起きたとき、「それはグランドルールに反していますよね」と言い出しやすいルールがよいグランドルールなのかなと思います。

理想は参加者同士でルールをつくること、だが…

 究極、というか、本来は参加者同士でその場のルールをつくることが理想的だと思っています。

 ただ、現実的に考えたときに、時間がない、お金がない、日程が揃わないというのが現場のリアルかなと思います。

 だからこそ、限られたリソースをもとに対話の場をつくっていくをしていくためには、社会的公正に基づいたルールづくりが必要です。

現状のグランドルールから見えるもの

 ここからは、既存のよく聞くグランドルールを考えます。

・人の話をよく聞く

 いろいろな場で、「話をよく聞く」ということがグランドルールとなっています。ただ、「よく聞く」って、どういうことでしょうか。

 話しが聞かれないことは確かに暴力的です。しかし「よく聞いたかどうか」は他者から見てわかるものではないので、測りようがないように思います。そうなると、その場で起きたことを捉える言葉としては曖昧すぎるのではと思います。

 態度で「あの人はよく聞いていなかった」と判断することにつながってしまうリスクがあります。

・相手を否定しない / 否定的な態度を取らない

 「相手を否定しない」「否定的な態度を取らない」とうことも対話の場のグランドルールとしてよく見ます。しかし私は、対話の中には否定したほうがいい場面もあると思っています。差別発言や偏見に基づいた発言は許されるべきでありません。また、マイクロアグレッションもできるなら発されるべきでありません。

 否定的な態度を取らないということはある場面では大事かもしれませんが、万能ではありません。

 社会に不公正がある以上、「否定しない」というルールは対話における暴力的なことを温存することにつながる可能性があります。

 また、私は参加態度は自由であるべきだと思います。態度で人をジャッジしてしまうのは、参加者同士の監視を強めてしまうおそれがありますし、その場に適応できない人の居場所をますますなくしてしまうおそれがあります。

・発言は平等に

 基本的に対話の場が誰にとっても平等で、公正であるという世界観のルールもたくさんあるように見えます。

 「発言は平等に」などは、みんなが話すことができる前提がありますし、平等な場はすぐにつくることができるという楽観的な側面もあるのかなと思います。

 ルールにすべきなのは、どのように平等や公正をつくるかという具体的なことであるべきではと考えています。

・建設的な対話にご協力ください / この場を楽しみましょう

 「いい場をともにつくりましょう」「この場を楽しみましょう」とか「建設的な対話の場をつくりましょう」ということがグランドルールであるときもあります。

 しかし私は「いい場」とか「建設的である」ということは誰が決めるのだろうと思ってしまいます。

 これらのルールは、つくり手が「こんな対話の場になってほしい」というある種の願いが投影されているのだと解釈しますが、対話のつくり手が想定していなかった参加者を排除してしまう可能性があります。

・何を言ってもいい / 聞いているだけでもいい

 「何を言ってもいい」「聞いているだけでもいい」「まとめなくてもいい」「意見が変わってもいい」というグランドルールもあります。これは一見よいルールに思えます。

 しかし、これはそもそも人として生ていく上で、また何かに参加する上での大前提です。「ここの場では何を発言してもいい」というのは、「ほかの場では何を言っていいわけではない」というメッセージを送り出してしまうのではないかと思います。

 ただ、当たり前のことが難しいのも現実です。グランドルールではない、対話の場の意図説明や過ごし方の説明の場面で、これらの説明を補うことができそうです。

よいグランドルールとはなんだろう?

 これらを踏まえて、現状私は対話の場のグランドルールは以下の点が重要かなと思います。

・具体的である
・明記されている
・参加者が覚えることができる

 私がグランドルールを再考したかった理由は、既存のグランドルールが、本当に思っていることを言うという対話という行為を支えているだろうか、という疑問からです。

 現状、対話という言葉が使われ、グランドルールが設定されている場が増えているにもかかわらず、グランドルールについての議論が起きているように見えません。

 公正な対話を目指して、誰かの気まぐれ、好み、その場の雰囲気に依らない、よりよいルールをともに考え、実践していきたいです。

 

レポートの終わりに

 さて、今回のSNUG DAYのレポートはいかがでしたか。…と気軽に聞くことがためらわれる文字量となりました。

 また、今回初の前編、後編に分けてのお届けとなりましたが、いかがでしょうか。お読みくださった方、本当にありがとうございます。
 「SNUG DAY vol.6 対話と技術」のレポートは「まさかの一万字超え!」などと言っていましたが、今回は二万字に迫っています。

 それはさておき、SNUG DAYという自主企画を始めてから一年が過ぎ、7回目の実施ができました。これは参加してくださる皆さん、そして気にかけてくれたり、日々支えてくださる皆さんのおかげです。

 これからもSNUG DAYは、公正な対話をスタンダードにするため、対話について議論できる場として社会にひらいていきたいです。

 これで「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」発表内容レポートを終わります。

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2026年7月10日(金)
対話の場づくり屋 SNUG
代表 長谷川友子

*1:村上靖彦(2025). 傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと 株式会社KADOKAWA(pp. 42-45)をもとに、発表者が一部アレンジ

【開催レポート】<前編>「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」発表内容レポート

はじめに

 こんにちは。対話の場づくり屋 SNUGの代表長谷川友子です。このレポートでは、SNUGのオリジナル企画「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」の様子や背景をお届けします。

 長いので、今回は前編、後編でレポートをお届けします。

 

「SNUG DAY」とは?

 私たちSNUGは、対話を技術として捉え、不公正な対話から公正な対話へと対話のスタンダードそのものを変えていきたいと考えています。

 そのために、SNUGは仕事を引き受けるだけでなく、メンバーやインターン募集を通して対話の担い手を育てたり、対話について議論できる場としてイベントを実施しています。その一つが、SNUG DAYです。

 SNUG DAYはSNUGの今をお届けしながら、参加者の皆さんと対話について対話しながら、対話文化を発展させていくための実験的な場になれればと考えています。

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今回のテーマ「対話と誤解」

 2025年4月より実施してきたSNUG DAYも、今回で第7回目です。

 前回より対話は重要なものであるという前提のもと、SNUGの信念であり最大のメッセージ「対話は技術である」ということを考える新シーズンに入りました。

 SNUGは、混沌とする社会情勢の中で、暴力の対極を対話として捉え、対話の意義やその力を掴み直していきたいと考えてきました。

 しかし、今回のSNUG DAYからは、対話の中に存在する暴力性にも目を向けます。

 

「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」を実施して

 今回のテーマ「対話と誤解」。さまざまな業界で頻出単語となりつつある対話という言葉。今回のSNUG DAYでは、対話という言葉についての誤解に焦点を当てながら、対話とは何かを捉え直します。

 SNUG DAYでは前回の「SNUG DAY vol.6 対話と技術」では多数のメンバーが発表できたものの、十分な対話の時間を確保することができませんでした。

 そこで、今回は入退場自由のフェス形式での実施とすることで、複数のメンバーの発表と対話の時間を両立させることにチャンレンジしました。

 最初にこのSNUG DAYの概要説明を説明したのち、集った参加者とSNUGメンバーで「集まった私たち」を知るためのチェックインを実施。

 その後、発表と対話のセットを以下のタイムテーブルの通り行い、最後は振り返りとチェックアウトを行いました。

当日のタイムテーブル

<詳細情報>

日時:2026年6月27日(土)13:00~17:30
開催方法:オンライン(zoom)
対象:当企画に関心のある方
参加者数:9人(延べ人数)

 

今回より、発表内容中心のレポートへ!

 前回までのレポートは、SNUG DAYの流れ自体も掲載していましたが、発表内容が増えてきたことにより、今回から発表内容を中心にアーカイブします。

目次
<前編>
SNUGニュースコーナー
・「本当のことを言うために、場づくり以外にもアサーションが必要!?」byもも
・「グループワークの気まずい瞬間」byぶんぶん

対話と誤解:テーマ発表
・「対話の意義と効能2026ver.」by 長谷川 友子
<後編>
・「対話は一体どこにある?」byぶんぶん
・「みんなにとって対話と会話は長期的にみて、互いに必要」byえり
・「対話と対話のリスク」byもも
・「グランドルール再考」by長谷川友子

SNUGニュースコーナー

 この時間は、SNUGメンバーが気になるトピックをお届けするコーナー。今回はメンバーのももさん、ぶんぶんから発表を行いました。

 

「本当のことを言うために、場づくり以外にもアサーションが必要!?」byもも

 まずは、SNUGに入って2年ほどのももさんの発表です。

 同じ参加者といえども、話しやすさは異なります。立場や属性、コミュニティへの参加頻度などから発言のしやすさは変わります。だからこそ、ファシリテーションやグランドルールなどの場づくりを通して、参加者同士の話しやすさのバランスを整える必要があると考えているももさん。

 ももさんは、本当のことを話すための方法として、「アサーション」という言葉を学びました。アサーションとは、「非主張的でも攻撃的でもない、自分も相手も大事にする自己表現の方法」のことだそう。

「非主張的でも攻撃的でもない、自分も相手も大事にする自己表現の方法がアサーション

 ももさん自身も思い当たる経験があったといいます。例えば、言いたいことを言うことができずに極端な言い方をして相手を傷つけてしまったり、人と話すと「どうせ傷つけてしまう」と話すのが怖くなったり。だから、ももさんは自分もアサーションをできるようになりたいと思ったそうです。

 対話の場でも、参加者みんなが思っていることを自分も相手も大事にしながら伝えることができたら、人と話すことへの恐怖がなくなったり、一人ひとりがありのままでいられる場ができるのでは、とも考えたそう。

 一方で、対話のつくり手の立場として考えると「参加者一人ひとりが上手に喋れるかどうか」を個人の努力にしたくないとも思っていると言います。

 思っていることを上手にきれいに話すことができる人は社会的に好まれます。しかし、思っていることをまとめてきれいに話すことは難しい。さらに自分も相手も大事にしながら話すということはなおさら難しい。だからこそ、対話のつくり手としては参加者にきれいに話すことを求めたくないと思っています。

 ももさんは、対話のつくり手には技術が必要だと思っています。一方で対話の場の参加者には何も求めたくないと考えています。参加者には、そのままで参加してほしい。上手に話してほしいとは思わない。

 アサーションは大事で、できるようになったらストレスがない対話の場に近づくかもしれないと思う一方、アサーションを強制したくないという気持ちがある、そんなももさんの葛藤の発表でした。

 

「グループワークの気まずい瞬間」byぶんぶん

 今回は自身の経験をもとに、対話の中の葛藤を発表しました。

 大学生であるぶんぶんは、物理の授業でグループで対話する時間があります。ぶんぶんは理科が得意ですが、他のグループメンバーは理科が得意なわけではありません。

 そんなメンバー同士のグループ対話では、自分が一人「物知り」みたいな立ち位置になってしまったと感じているぶんぶん。

 先生の「これはどういうことだと思いますか」という問いかけに対して、ぶんぶんは「これ!」という答えが浮かびます。理科が大得意ではない他のメンバーは「こうかな」「ああかな」と対話をしています。

 対話において答えや専門知識を混ぜ込むのはよくないと普段から思っているからこそ、ぶんぶんはグループの中で「自分が答えを言っているような気まずい気持ち」になると言います。

 今回のポイントは、対話の中の気まずさが対話の雰囲気ではなく、参加者間の知識量の差にあるという点です。

 そこで、ぶんぶんは対話の参加者の視点から問いを立ててみました。

他の参加者と自分が持っている知識量が大きく異なるとき、対話の参加者としてどのような姿勢で臨んだらいいんだろう?

 専門知識があっても、知識量の違いがあっても、どうにか対話がしたいと思ったぶんぶん。

 ぶんぶんは授業の対話の中で、本当はいろんなことを言いたいけれど、あえて言わずに参加してみたりしました。

 でも、自分が話す内容を絞ると、自分に嘘をついている気もしそうです。だからといって、自分が黙りこくるわけにもいかない。

 知識量が同じくらいの人と話せば、心地よく対話は進むだろう。でも知識量が多いと思われている人が対話に参加したとたん、「あなたが言うならそうなのかもね」と答え合わせのような、対話が終わっていくような雰囲気になってしまう。

 そこでぶんぶんは、専門知識はあれど、専門用語を話すから気まずい要素が生まれるのではという仮説を立ててみます。

 前回の授業では、発言を身近な例に引き付け、専門用語を禁止してグループワークに参加してみました。

 その結果、専門用語で言わないから「これってどういうこと?」みたいな議論は生まれ、対話は発展したように感じたと言います。

 でも、自分がほかの人に合わせている感じや居心地の悪さは抜けきれないとも思ったぶんぶん。「参加者同士で知識に差があっても全員が納得できる対話はつくれるのか?」と模索していることの発表でした。

 

本編:「対話と誤解」テーマ発表

「対話の意義と効能2026ver.」by 長谷川 友子

 SNUG DAYではさまざまなことを扱ってきました。今回は、直球の対話の意義と効能について私の現在地とともに発表します。

対話はクリエーションである

 この春、自分の幼いころから今までの振り返りを行いました。それらを踏まえて、どういうふうに対話や対話の未来を捉えているのだろうかということをまさに考えているところです。

 「対話は技術である」という私の信念、これをSNUGの信念にも掲げて対話の場づくりをしてきました。でも、もう一段上にも思っていたことがありました。それは、「対話とはクリエーションである」ということです。つまり、対話の場づくりは私にとって創造であるということです。

 私は20代前半までは美術や芸術に関わってきました。当時携わっていた演劇や絵画や展覧会など、そういう作品や展示づくりと対話の場づくりは、ある意味で同じような部分があるのかなと気づいたのです。

では、なぜ対話の場づくりなのか?

 私はソフトな場づくりとして対話を捉えています。場所や建物などのハード面に大きく依存せずともできる場づくりとして対話を捉えています。

 また、私は対話を、人間の基礎的な行為と捉えています。話すこと、聞くこと、集うこと。これらは人が人として生ていく上で欠かせません。

 さらに、対話は他者がいれば誰とでもどこでもできるものとして、開かれた行為であるとも思っています。

 …実際は実際相手が対話する気がなければうまくいかないなど、そう簡単なことでもありません。しかし、お金がなくても、場所がどこでもできるというところは、私が対話に惹かれる大きな一面です。

どんなときに対話は必要か?

 対話が大事と思っている私ですが、どこでも誰とでも対話をすればいいとは思っていません。私たちの社会や世界が全て問題なく、素晴らしい社会であれば、わざわざ対話する必要はないのかもしれません。

 ただこれは極論で、実際の私たちの社会は複雑で、私たち人間はままならない。言いたいことを言うことが大変だったり、自分の気持ちがわからなかったり。

 そんな私たちがともに同じ社会に生きて、ともに存在していくためには、様々な利害やニーズがあって、「どうでもよい」「人それぞれ」と言えないこともあります。そして、どうでもよくないな、人それぞれって言ってられないなという場合には、ともに取り組まなければならない。そのときに、対話は有効です。

SNUGが考える対話とは?

 SNUGが考える対話の定義は「ある一定の目的に向かって、意識的に集い、話し、聞く営み」です。が、これってとても広い意味で対話を捉えていることになります。

 対話を議論や討論と並列して説明されることもあると思います。しかし私はまず「ある一定の目的に向かって、意識的に集う」という土台があって、その上でバリエーションがあるのかなと捉えています。

 もちろん対話でないものもあります。スピーチとかプレゼンやピッチなど、一方向的で、話す人にフォーカスを当てるものは対話ではありません。

対話についての誤解

 対話という言葉がたくさん使われるようになりました。そんな中、「対話をしても意味がなくない?」「集まって話して意味あるの?」と言われることも増えました。

 対話が議論されること自体はいいことであると思いますが、対話についての議論が深まっているんだろうか、と思うことも多々あります。

 対話は集まって、話して、聞くことですから、一見シンプルですよ。このシンプルさゆえに曖昧な解釈や実践が増え、対話への誤解が生まれているのではないかなと思います。

対話の意義?

 対話の一般的な意義を見てみましょう。ネットで出てきたり、よく聞くなと思うものを集めてみました。

・一人で考えるのでは限界がある。だから対話しよう
・対話すると関係が構築される
・対話をすれば相互理解につながる
・対話はイノベーションにつながる

 私は以上の言説にあまり納得はできないと思っています。

 「一人で考えるには限界があるから対話が必要」というのは、損得の観点ですよね。テクノロジーが発展して、一人でも膨大な思考やアイデアが生み出せるようになれば対話しなくてよいのでしょうか。私はそうは思いません。

 「対話すると関係が構築される」「対話をすれば相互理解につながる」というのにも懐疑的な部分があります。実際、そこまでのスピード感が対話にあるだろうか。対話が何かを解決するのかについては、疑問の余地があります。

 もちろんやり方によりますし、誰とどう対話するのか、対話のスパンにもよります。「対話はイノベーションにつながる」というのも、そうかもしれないけれど、そうとも限らない、というのが実感です。では、対話の効能はどこにあるのでしょうか。

対話の効能

 私は対話という行為そのものに力があるから対話をするのだ、と思っています。つまり、集って話したり聞いたりすることに意味や効能があるのです。

 私たちは社会の中で生きています。ここでいう社会というのは、どのスケールでもよいです。人がいる中で生ていますね。

 自分が本当に思っていることを言えなかったり、自分のうちに自分が思っていることをとどめること、つまり話さない、話せないということは、自分の本当の気持ちや考えがなかったことにされることに等しい。

 自分が苦しいと思っていても、それを声に出すことができる機会がないと、自分一人の中に現実が閉じこもってしまう。

 人と人が共存する場を社会と捉えると、二人でも三人でも、対話の場に人が集まれば小さな社会と呼ぶことができます。

 その小さな社会で本当に思っていることを口に出すことが、自分の感情や考えや疑問を、そこに存在させることになるのです。

 声を上げることは重要ですが、その前に、そもそも声を出せることも重要です。声を出す場として対話の場があるのではと考えています。

対話ができること

 これらの考えを踏まえて、私なりに対話を再び整理してみます。

 対話は、他者のリアリティ(現実)に触れることができる行為です。一人ひとりのリアリティに触れることで、この社会のリアリティ・真実を探す場にもなりえます。また、対話は声を出す練習、他者に頼る練習の場にもなりえます。

 さらに、対話という行為は、人々の回復や修復にとって欠かせないものです。話したり、聞いたりすること自体によって、傷や、つらかったこと、またはよろこびや嬉しさを声に出すことができます。

 自分の声が聞かれ、その声が他者に認識されることは、社会から受けた傷や、社会に生きるよろこびをなかったことにしないということです。

 なかったことにしないということは、現実を取り戻すということです。直視できなかった現実を見ることで、未来を考えることができます。

SNUGが掲げる「公正な対話」

 ここまで対話の意義や効能について話してきましたが、全ての対話がその効果を発揮するとは思っていません。社会が不公正であれば、対話の場でもまた不公正が存在してしまいます。だから、「公正な対話」という言葉を掲げ、その重要性を伝えてきました。

 「公正な対話」とは、対話の中にある不公正を考え、それらをなくすための工夫をする対話のことです。

 でも「完全な公正さ」は理想です。なぜなら、取りこぼされている、排除されている人は多くの人から見えないからです。今いる全ての人が包摂されたと考えることは、確認のしようがなく危ういことだと思います。

 ですから、SNUGは公正な対話をつくるための終わりなき実践と振り返りの道のりのこと自体を「公正な対話の場づくり」と呼んでいます。

 公正な対話を実現するために、ファシリテーションやコーディネーション(グランドルールなどの場の設計や調整、準備)をしています。

今はどんな時代でここはどんな場所なのか対話の場から見えてくる

 「公正な対話」を考えることは、今自分(たち)がいるところを場所や時間を超えて理解する手掛かりであり、自分がいる時代、社会を、より立体的に理解できる行為であると考えています。

 例えば、今私たちが話すこと、話さないことはどういうことか、私たちがよしとするもの、しないものはどんなことか、話すやすいこと、話しにくいこと。

 これらは今の社会を映すものだと思うし、今という時代そのものです。対話をすることは、一人ひとりの相互理解よりむしろ、今の社会や時代をより立体的に理解することにつながるのだと考えています。

 対話すること自体にも効能がありますが、加えて公正な対話を目指すことで、対話がただの情報交換や交流にとどまらない効能が引き出されるのではと信じています。

 皆さんはこれを聞いてどう思われましたか。これで発表を終わります。

 

 レポートの<後編>へ続く…!

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【第113号】「好きなことをしてたい 愚か者でいいじゃない」

「SNUG Journal」 へようこそ!

 「公正な対話の場づくり」と「対話の主流化」を理念に掲げ、対話の場を専門に設計・運営する団体「対話の場づくり屋 SNUG」の代表長谷川友子が、SNUGにまつわる情報や活動内容、関連するトピックを毎週金曜日ごろにお届けするジャーナルです。

 今回は第113号。SNUG DAYが明日開催ですので、今日はミニジャーナル。低気圧の頭痛とむくみとともにお届けします。

 ぜひお読みくださいね!

 

明日開催のSNUG DAY。どんな時間になるのかな?

 SNUG DAYとは、SNUGの自主事業。メンバーが発表をすることでSNUGの今をお届けするとともに、対話について対話するイベントです。

 今回は、入退場自由を前提としたフェス形式での開催です。お好きな時間に入って、お好きなタイミングで退出ください。もちろん、再び入場も大歓迎です!

 以上は現時点での予定です。プログラムは変更となる場合がございます。

実施日時:2026年6月27日(土)13:00~17:30  ※入退場自由です。
開催場所:オンライン(zoom)
対象/定員:当企画に関心のある方でオンライン参加が可能な方
申込方法:申込制です。こちらのフォームよりお申し込みください。
体制:主催 対話の場づくり屋 SNUG  

 皆さんとお会いできることを楽しみにしています!

 

低気圧ですね、最近思うことを曲とともに、少しだけ

 本州は台風が来ているとニュースで見ました。北海道にいると、あまり台風って身近じゃないんです。6月の台風…といえばクラムボンの「forklore」をふと思い出しまいた。何もかもしんどかった10代のころ、ずっと聴いていたな、とか。

何かが変わっていくような そんな気がした あと少しで
何事もなく消えていく6月6号 あと少しで

www.youtube.com

 こんな情緒を失ってしまうかと思いきや、そんなに変わらない。今年は何事もなく、台風が過ぎていきますように。

 大人と言われる年になって、「大人ってなんだろう」「成熟ってなんだろう」と考えることが増えました。そして、それにこだわっている自分にも。

 そんな中、「好きなことをしてたい 愚か者でいいじゃない」と歌う宇多田ヒカルと甲本ヒロトに励まされるような日々です。こんなふうに思われたいし、こんなふうに声をかけられるようになりたい。

www.youtube.com

 曲の話しが二つ続いたので、あと一つだけ。「THE FIRST TAKE」バージョンと迷いましたが、こちら。

 森山直太朗の「あの海に架かる虹を君は見たか」。

www.youtube.com

 私は密かに森山直太朗ファンをやっておりますが、「この曲みたいになりたい…」と思ってしまう不思議な曲。最初の音からずば抜けています。ぜひお気に入りのイヤホンかヘドフォンで聴いてみてください。

 ああ、優しい人になりたい。大人になりたい。もっと自信を持ちたい。もっど堂々としたい。したい、なりたいばっかじゃん!

 誰かに「あなたのままでいい」と言うのであれば、まずは自分に言えないといけませんね。キャロル・ギリガンも、『もうひとつの声で』などで、「自己犠牲から自身を包摂したケアへ」と言っていたと思います(難しくて…解釈が違っていたらすみません)。まだまだ私は、自分を受け入れられたり、受け入れられなかったりする。

 自分のしていることをモジモジしないで言えるようになるには、まだ時間がかかるかもしれない。今一緒にお仕事をしているデザイナーさんにも「長谷川さん、訓練の連続だと思いますよ。泥臭くいきましょう。」と言われ、Zoom越しに泣いていた今週。

 なんでかっこよさばかり求めてしまうんでしょう。自分でも、わからない。いや、わかっている。いや、わからない。でもこんな日々を。迷いながら過ごす日々も、楽しみたい。いや事実、楽しい。

 

結び

 さて、今日はSNUG DAY直前ということで、発表づくりの合間のつぶやきみたいなSNUG Journalになりました。

 今年の3月から6月にかけてポートレートを撮ってくださったおばけうさこさんからフィルム写真が届きました。

 いろんな人に頼って、みんなでいい社会にしていきたい。これを大きな願いとは思わない。変わり者でも、ちっぽけな私でも、私のまま生きていく。

 これで今週のSNUG Journalはおしまいにします。さあ、明日はSNUG DAY楽しもう!ではまた、来週ここSNUG Journalでお会いしましょう。

優しい眼差し

2026年6月26日
対話の場づくり屋 SNUG
代表 長谷川友子

【第112号】対話とはクリエイションである

「SNUG Journal」 へようこそ!

 「公正な対話の場づくり」と「対話の主流化」を理念に掲げ、対話の場を専門に設計・運営する団体「対話の場づくり屋 SNUG」の代表長谷川友子が、SNUGにまつわる情報や活動内容、関連するトピックを毎週金曜日ごろにお届けするジャーナルです。

 今回は第112号。今回は、SNUG DAYのタイムテーブルや、「私にとって対話とは」という問いへのアンサーについて徒然なるままにお届け。

 ぜひお読みくださいね!

 

気づけば、初夏

 せわしない毎日の中、書くことを楽しむことができないなと思い、先週はSNUG Journalをお休みしました。

 四月ごろ、「春の何かが動き出す空気感が怖い」と医者にこぼすと、「どうせすぐ夏が来る」と一蹴されましたが、本当にすぐそこに夏が来ている!しかし、少し頭がいっぱいいっぱいで。

 このジャーナルを書く前に、頭をすっきりさせようと近所を散歩してきました。そしてシャワーを浴びて、今。

 もうすぐ雨が降りそうな、湿気を含んだ夏の甘い香りがします。昼は日差しが少し強いけれど、夜はひんやりとして気持ちいい、貴重な季節です。よく頑張ってこの季節まで来たなあ、とふと思います。

 いろんな不安や悲観が膨らんで、自分で制御するのが難しいときがある。極端な思考になるときがある。でも、気を取り直すこともできる。自由を感じることもできる。

 常々、休息、つまり脳と身体を休ませることが本当に大事だと思う日々です。難しいですよね。地道に練習、試行錯誤している現在です。

 そんな私のままで、今週もジャーナルをお届けします。最初はSNUG DAYのことから!

 

「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」のタイムテーブルを公開しました!

 2026年6月19日(土)13:00~17:30にオンラインで開催する、対話の場づくり屋 SNUGオリジナル企画、SNUG DAY。気づけばvol.7!

 

 対話という言葉は、多様な業界で重要視され頻出単語となりました。そんな今、「対話という言葉についての誤解」にあえて焦点を当て、SNUGメンバーが望ましい対話の姿を考えます。

 

タイムテーブルを公開!

 今回は初の試み、途中入退場が前提のフェス形式での実施です。このスタイルは、メンバーの発表と対話の時間を確保するために考えました。

 気になる発表や対話を目掛けて、ぜひお越しくださいね。

 以上は現時点での予定です。プログラムは変更となる場合がございます。

実施日時:2026年6月27日(土)13:00~17:30  ※入退場自由です。
開催場所:オンライン(zoom)
対象/定員:当企画に関心のある方でオンライン参加が可能な方
申込方法:申込制です。こちらのフォームよりお申し込みください。
体制:主催 対話の場づくり屋 SNUG  

 皆さんとお会いできることを楽しみにしています!

 

私にとって対話とは、クリエイションである

 ここ一ヶ月は自分のビジョンを考えたり、自分のしてきたことについて振り返る時期でした。

 そんな中、「私にとって対話や対話をつくることとは何か?」という問いについて考えたとき、「答えはあるけれど掴めない」感覚がありました。

 しかしある日の帰路、地下鉄の駅の階段から地上に上がってふと閃きました。私にとって対話とはクリエイションだ、と。

 私はちょうど一年前、SNUG Journalにこんなふうに書いていました。

 面倒だと思っている。一人でいたい。対話が大事と言いながらどこかで協働に魅力を感じていない。(略)対話はぶっちゃけ、疎ましい。

 (中略)だとして。いちばんの受け身が私なのでは?オファーが来ないとやらないなんて。

 自主企画が継続的になる前の私から、変化している。対話という言葉に対して、ある種の重たさを感じていた一年前。その重たさは、対話という言葉と私との間にある緊張感のことだったのかなと思います。

 今は、緊張感がないとは言えないかもしれない。でも、かつて自分がしてきた美術や演劇などの世界で作品を作ってきたことと同様、今の私にとって対話の場も創造なのかもしれない。そう捉えると、とてもしっくりきたのです。

 先ほど引用した文章は、一年前に、何を書いているのかわかられなくてもいいやとすら思いながら、当時読んでいた小説の文体を借りて(パクって)書いた号。

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 過去のSNUG Journalの中でも特にキテレツ回でしょう。

 私はこれまで対話の場づくり屋として、そして対話オタクとして、私は対話を信じ、そして対話を疑ってきた。

 疑って疑って疑ってきた。今は、対話を信じている。でもまた疑うだろう。また信じるだろう。気づけば、そんな繰り返しの中にいる。

 対話は、まぎれもない、私にとってのクリエイション(創造)。

 

結び

 今週もSNUG Journalをお読みくださりありがとうございました。いかがでしたか。

 最近は少し真面目な回が続いたので、徒然なるままにいま書きたいことを書いてみました。私はこのSNUG Journalでは伝えたいことを書きたいなと日々思っています。

 さて、来週はSNUG DAY前日。ミニジャーナルになることが予想されますが、何かしらお届けできたらと考えています。

 また来週、ここSNUG Journalでお会いしましょう。

 

2026年6月19日(金)
対話の場づくり屋 SNUG
代表 長谷川友子

 

【第111号】SNUG Journalのデザインをミニリニューアル!過去を見つめ、未来を見る、ほか

「SNUG Journal」 へようこそ!

 「公正な対話の場づくり」と「対話の主流化」を理念に掲げ、対話の場を専門に設計・運営する団体「対話の場づくり屋 SNUG」の代表長谷川友子が、SNUGにまつわる情報や活動内容、関連するトピックを毎週金曜日ごろにお届けするジャーナルです。

 今回は第111号。今回は、SNUG Journalの静かなリニューアルと、最近の私長谷川やSNUGについてお届け。

 サラっと読めます。ぜひ最後までお楽しみください!

 

SNUG Journalのデザインをリニューアルしました!

 PCでご覧の方は既に目に入ったかもしれませんが、このたびSNUG Journalのデザインをリニューアルしました!

 SNUG Journalを続ける中で生まれて来たコンセプト、「対話をひらく」という言葉も入れています。

 ロゴとタイポグラフィーを提供くださったのは、今回もアーティストのクマガイコアさん!ありがとうございました。

 SNUGは、これからお仕事としても、そしてコミュニティとしても育てていく時期。サボテンのような色もありますね。

 これからまたSNUG Journalを、地道に続けていこうと思います。加えて、ジャーナルという形を通して、「対話ってこういうことなのかな」「対話をこう見ることもできるのだな」というように、ここが「対話をひらく」場になれたらと思っています。

 

学び、過去を見つめ、未来を見る

 今週は、なんだかいろんなことがありました。司法現場における当事者研究のセミナーに参加したり、修復的対話にオンラインで参加したり。フリースクールの見学をしたり、お久しぶりや初めましての方とのミーティングもありました。こうして少しずつ動いていくことがとても嬉しいですし、幸せだなと想います。

 そんな中、今週は私長谷川自身の過去を振り返り、それをまとめる時間も多くとりました。SNUGの理念やビジョンを考えるための土台となる作業です。

 今まで、私は自分の過去にあまり興味を持てず、ここまで来ました。でも、これを機に当時の日記などを読み返しながら過去を振り返ることに。

 作業を通じてわかったことは、小学生のころから、私のスタンスはあまり変わっていないということ。

 私のことを「知ってほしい」という気持ちが少し芽生えてきました。振り返りをレポートにまとめていたのですが、その最後のほうの文章を、SNUG Journalの読者の皆さんにも共有します。

(中略)でも、そろそろ認めます。変わり者で、野心家で、真面目で、いつもどこか馴染めない私。それが恥ずかしかった。認めたくなかった、でも、やっとそれを受け入れられそう。過去も 過去として、受け入れられそう。この社会に適応するのではなく、いびつな私のままで生 きてみようと思います。孤独だとしても、楽しめそう。

 SNUGのことも、私のことも、知ってもらいたいと思えていること。これは、私にとっては大きな変化です。

 

オリジナル企画「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」のビジュアルを更新&実施時間が決定しました!

 「SNUG DAY」とは、SNUGの今をお届けするとともに、参加者とともに「対話について対話する」対話の場づくり屋 SNUGオリジナルイベントです。今回もオンライン!

 テーマは、「対話と誤解」。対話という言葉は、多様な業界で重要視され頻出単語となりました。そんな今、あえて「対話という言葉についての誤解」を考えることで、望ましい対話の姿を考える時間を予定しています。

 前回のSNUG DAY「SNUG DAY vol.6 対話と技術」では多数のメンバーが発表できたものの、十分な対話の時間を確保することが課題として残りました。
 そこで、今回は入退場自由のフェス形式での実施とすることで、複数のメンバーの発表と対話の時間、どちらも楽しんでもらおうということになりました。

 今回、私含めてSNUGから4名の発表者が発表します。来週あたりにはタイムテーブルを発表しますので、お好きなときにいらしてくださいね!

実施日時:2026年6月27日(土)13:00~17:30  ※入退場自由です。
開催場所:オンライン(zoom)
対象/定員:当企画に関心のある方でオンライン参加が可能な方
申込方法:申込制です。こちらのフォームよりお申し込みください。
体制:主催 対話の場づくり屋 SNUG 

 私は改めてSNUGについてその理念や野望を語りる発表と、最近いろんな方からご相談や質問をいただく「対話におけるグランドルール」について、この春学んだことや私の意見、対話への取り入れ方を発表しようかなと考えています!

 

そもそも、ビジュアルを作り直したワケ

 当初のビジュアルは、私が映り込んでいるデザインでした。

旧バージョン

 Instagramの画面に人の写真が並んでいるのが少し気に掛かっており、「初版のビジュアルづくりで得た感覚を活かしてもっとシンプルなものを作ることができないか?」と手を動かしてみました。

 実際に作りました、シール帳!貼り直せるということに多いに助けられ、満足のいくビジュアルをつくることができました。

 そして、作業を通じて昔を思い出しました。シール帳のぶよぶよとしたビニールの感覚は、私にとって非常にノスタルジックです。

 

雑談タイム

 SNUGで対話の場づくりを学ぶメンバーたちは、いろいろな興味関心を持っています。メンバーの一人、製菓を学んでいるメンバーがおりまして、最近の定例ミーティングでは、彼女が実習でつくったお菓子やパンを持ってきてくれます。今週はシュークリーム!

一同大喜び!

 「シュークリームをつくるときはどんなところが重要なんですか」「課題点はどこなの?」と問いかけながら、美味しくいただきました。

 素人の私は「おいしい」ということしかわかりませんが、彼女は彼女なりに悔しさや課題点があるようです。

 彼女が学校で製菓を学び出したのと、SNUGに入ってくれた時期は同時期。ということは、SNUGでの学びと、彼女の製菓の技術は並行して積み重なっていくのだなと不思議に感じる最近です。

 

結び

 さて、今週はここまで。今週のSNUG Journalはいかがでしたか。

 今週は土曜日夜の発行となりましたが、おかげさまでSNUG Journalを書くことができました。最近と比べると文章量もライトですが、たまにはこんな回もいいのかなと思います。

 さて、今週はサラっと!ここでおしまいにします。来週もまたここSNUG Journalでお会いしましょう!

 

2026年6月6日土曜日
対話の場づくり屋 SNUG
代表 長谷川友子