はじめに

こんにちは。対話の場づくり屋 SNUGの代表長谷川友子です。このレポートでは、SNUGのオリジナル企画「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」の様子や背景をお届けします。
長いので、今回は全編、後編でレポートをお届けします。
unitsnug.hatenablog.com

「対話は一体どこにある?」byぶんぶん
当初は「意義ある全体共有を目指して」という発表を予定していましたが、発表をつくる中で、タイトルを「対話は一体どこにある?」へ変変更したぶんぶん。

「対話は一体どこにある?」という問いまでの道のり
当初のタイトル「意義ある全体共有を目指して」の理由から説明します。
僕は教育を学んでいますが、授業などの教育の現場では、グループで活動や対話をしたあと、グループごとに活動した内容を代表者が参加者全体に共有する時間がよくあります。
そういう場面で、代表者がグループで話したことをまとめてしまうと「私が言いたかったことが代表者にきちんと伝わっていなかったのだな」「自分の意見がまとめの中に反映されていないな」と感じるときがあります。
だからこそ、全体共有をするときの発表者や代表者はとても重要な立場だと思っています。代表者がグループメンバーの意見を潰してしまったり、多数派の意見にまとめてしまったりすると、それまで対話していた中身が無駄になっているようにも感じるからです。
そういうわけで、「グループ活動の全体共有はなんのためにあるのだろう?」と考えるようになりました。
実際に、授業でグループワークを実施している二人の先生にグループワークの全体共有の意義を訊いてみました。
A教授は「一人で考えるだけでは思いつかなかったことを共有してほしい」と言いました。確かにそうだな、と思いました。B先生に訊いてみると「対話をしていたら『これは伝えなくてもいい』ということが出てくるでしょう。そういうことを取捨選択してみんなに伝えてほしい」との回答がありました。
これらを聞いて、僕は「グループ代表」としての発表を、彼/彼女、要は「個人としての考え」として発表してはどうかと考えました。
グループの代表として話すとなると、意見を整理したりまとめるというニュアンスが出てきてしまいますよね。だからこそ、あくまで個人の意見を発表する仕組みになったらいいなと思っています。
これらは、ファシリテーターの問いかけなどで実現できる部分かと思います。ファシリテーターが「グループ代表として発表してください」と呼びかけるのではなく、「グループでの対話を通じてあなたが考えたことを共有してください」という形で全体に意見を発表・共有することが可能です。
対話は一体どこにある?という問いが生まれるまで
先日、中学校の授業見学をしました。この体験がタイトルが変わったきっかけです。
見学した授業の中でも、グループワークの時間がありました。「この問題を考えてみよう」という感じのグループ対話を見学しました。
その後、その授業に関わる先生とお話しできる場がありました。その先生の返答によって、僕の考えは大きく変わりました。
僕からの「どうして授業内で対話の場を設けているのですか」という問いへの先生の答えは「グループをつくるのは生徒の考えを均すため」というものでした。
はっきり意見できる人の考えが、はっきり話せない人にも伝われば、グループ活動をしたあとはみんな同じ土台に立っている、つまり進んでいる人に合わせるように、進んでいない人を追いつかせるためにグループの活動を設けていると知ったのです。
僕は正直ショックでした。
小学校、中学校…とグループ対話がある授業を受けてきました。これまでの学校の授業は、対話や議論の場は多かったけれど、なんだかしっくりこないな、ファシリテーターがいる対話の場はすごく気持ちいいのに、授業ではそうならないのはなんでだろう、という疑問を感じていました。
でも、「生徒の考えを均すため」という先生からの答えを聞いて、僕が授業で感じていた対話の違和感はある意味正当で、授業は僕が考える対話、意見を持つのが苦手な人も、得意な人も、みんなが話しやすい場とは違うんだと気づいたんです。
実際は教師としては授業のためのグループ活動なわけで、ゴールがあります。授業の目的を達成するために、生徒の中で置いていかれている人を出さないためのグループ活動だったということです。
僕は、意見を持つのが苦手な人も得意な人も、みんなが話しやすい場をつくることが大事で、そのためにサポートするのがファシリテーターだと思っています。
ファシリテーターとして場づくりを学ぶことが、教師としての授業の場でも、聞くことや問いかけを意識してよりよい対話をつくっていけることにつながるのではと思っていました。
でも、そもそも授業の中での対話は、自分と考えていたものと違ったのかもしれないという経験でした。
対話と呼ばれるものたち
「対話が意味ない」みたいな誤解は最近よく聞くと思います。ここで思うのが、「意味ないよね」と言われている対話は、果たして本当に対話なのか、ということです。
もしその対話が、主催者の意思がマシマシで、参加者同士が話すことよりも、話すことによって得られる結果のほうが大事というものだとしたら、参加者にとって対話が面白くないと感じることになりますね。
そもそも、学校は評価される場です。最終的に点数をつけられる場である授業で本音は言えないのかなとも思います。
本当のことを話すということは、「違うかもしれないけれど」「これを言っちゃっていいのかな」みたいなことも発言に入り込むということですよね。
対話の場をつくるのは誰?
対話、対話とさっきから言ってきましたが、対話の場をつくるのは誰でしょうか。
僕は、授業が先生が生徒の足並みを揃えるという意図の場をつくっているから、生徒全員の気持ちのよい場になっていないのではと考えてきました。
しかしよく考えると、授業でも、参加者一人ひとりが対話ってなんだろうと考え、人との話し方や聞き方を学んで理解していれば、参加者から気持ちのよい場をつくることはできるかもしれません。
僕が最初に全体共有の意義について考えていたときに、代表者が個人の意見として語ることで、他者の意見を潰してしまわないようにしたいということを発表しました。主催者やファシリテーターがいなくても、個人から、参加者から対話の場をつくっていくことができると思いました。
今の小学校、中学校では授業の中でプレゼンをつくり発表するという機会は多いと思います。一方、対話の技術は学校教育の中で学ぶ機会が全然ありません。
僕もファシリテーターに関心を持ってから、話しの聞き方、グランドルールなどの対話とその場づくりの技術について知りました。対話の技術は子どもたちにも必要だと思いましたし、話の尊重の仕方、話の聞き方など対話の技術を持ち込めば、生徒から対話の場をつくっていけるのかなと思いました。
ぶんぶんの野望
最後に僕の野望、「対話を内側から広げていく」ということについてお話しします。
授業は、「知識を持っている先生」から「知識を持っていない生徒」へ問う発問型であるということは今後も変わらないのかなと思います。
でも、発達段階に応じて変わってくることもあります。小学校、中学校では身につけなくてはいけない知識があるから発問型傾向が強い一方、大学などになると「答えを知らない」教師が「答えを知らない」学生に問いかける問いかけ型の授業にも変化します。
生徒一人ひとりが対話の技術を持っていれば、授業内で、先生の意図や意向がすでにあったとしても、よりよい対話の場をつくることができるはずだと思います。
答えがないことを話し合う側面がある授業などで、小さい子どもたちが対話について学んでいくことができれば、生徒側から対話を広げていくことができます。これが「内側から対話を広げる」ということです。
これが僕の現在地です。皆さんはどう思いますか。
「みんなにとって対話と会話は長期的にみて、互いに必要」byえり
SNUGに昨年度の終わりに入ったえりさん。えりさんは、自身の経験から、対話と会話とその重要性についての発表を行いました。

対話と会話の違いについて
SNUGでは、対話を「ある一定の目的に向かって意識的に集い、話し、聞く営み」と捉えています。
一方会話とは、「カジュアルなおしゃべりや、明確なゴールを持たないやり取り」です。これはネットからしっくりきたものを引用しました。
対話は重要だと言われるようになりましたが、対話と会話については、それぞれを独立して考える風潮を感じています。
でも私の考えでは、対話と会話は真逆ではありません。別の部分と異なる部分がそれぞれあると思います。

対話と会話、それぞれどんなときに必要なのでしょうか。自分の言葉で説明するのは難しいと思いましたが、私なりに考えてみました。
対話は問題(対人関係でのトラブル、意見のぶつかり合い、社会的な問題etc)が起きた時に特に必要となります。真面目な場面もあれば、楽しいこともあります。
会話は、関係性の維持、仲を深める、リフレッシュなどのために必要だと思います。でも、対話にもこのような要素があります。重なる部分もありますね。
では、対話と会話両方の必要性についてはどうでしょうか。
私たちは日々お喋りをしています。それに、SNUGの対話の中でも、集った参加者を知るための時間であるチェックインや、(SNUGではあまりしませんが)ワークショップのアイスブレイクなどは、対話の中にある会話的なところかもしれません。
会話は、相手の状況を知ることができ、関係性を深められるからこそ、よりよい対話にもつながるのではと思っています。
みんなにとって対話と会話は長期的にみて、互いに必要だと思う
まず、「みんな」って誰のことか。私は、みんなとは「対話している(するべき)当事者」と「その周りの人たち」のことだと考えています。
対話の当事者にとって、対話と会話をすればお互いのことを知ることができ、解決にもつながります。
加えて、当事者が対話をできていない場合、その対話ができていない弊害は、周りの人たちも巻き込むのではないかと思っています。
これは私の体験に基づいています。ある知り合い二人がお互いに不満がありながら、あまり仲よくない時期がありました。
その時期に、お互いが自分の状況や思いを相手に伝えるのではなく、周囲の人に「あの人にこれを言っておいてよ」とお願いしたり、二人の喧嘩の仲介を頼んでいる姿を見てきた経験があります。
周りの手を借りることは、悪いことではありません。むしろ手段の一つです。
一方で、その二人が日頃から会話や対話をしていたら、当事者だけで解決できることもあったのではと思うんです。
だから私は、対話や会話は当事者だけのものではなく、その周りの人たちにも関わってくると思っています。
次に「長期的に」というところです。これは言い換えると、「日頃から」という感じです。
相手の性格やテンションや体調など、その全部を一回の対話や会話で知ることは難しいですよね。これらは常日頃から、何回も会話や対話をしているからこそわかるものです。
これにも私の体験があります。私の父は単身赴任で、一緒に住んでいる期間は私の半分くらいです。私はある日、父と大喧嘩をしてしまって。単身赴任であまり関わりを持てなかったことは仕方ないこととはいえ、もっと日頃から父と会話や対話をしていたら喧嘩に発展しなかっただろうし、喧嘩になったとしてもここまで大喧嘩にはならなかったのではと思いました。
もっとお互いに話すしていれば、お互いのことを知ることができて、食い違いにつながらなかったのかな、と思っています。
対話と会話の関係
私は以下の図のように、会話があるから対話ができると感じています。

このシーソーの図のように、対話も会話の重要だから、どっちかがなくなったら傾いて、成立しなくなってしまう。対話も会話もどちらも同じくらい重要です。
以上のことから、私は「みんなにとって対話と会話は長期的にみて、互いに必要だと思う」と考えています。
「対話と対話のリスク」byもも
SNUG DAY常連、前回のSNUG DAYの発表からまた考えが深まったももさんからの発表です。

前回の発表のおさらい
前回のSNUG DAYで、トーキングサークルという対話に参加したことをきっかけに、「いろんな対話が知りたい」という発表をしました。その発表では、これまで私が参加してきた対話とトーキングサークルの違いについて感じたことを整理しました。

そのあたりから、対話は考えを深めるだけではなく、人が人を支え合う側面もあるのかもと思っていました。
人と人が支え合うってなんだかケア的だな、と思っていましたが、そのときは「ケア」という言葉の定義はあまり知らず、イメージとして捉えていました。
ケアってなんだろう?
ケアってなんだろう、知りたいなと思って『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』という村上靖彦さんの本を読み始めました。
この本について説明します。人はお互い支え合い、ケアを与えるしケアを受け取り合う存在で、ケアがあった上で自立が成り立っている。でも、ケアをし合う中でも傷ついたり、傷つけたりすることってある。その背景には何があるのかな?ということが書いてある本です。ざっくりした説明ですが…。
この本の中に、ケアとは何かということが4つにまとめられていました。
(1)ケアは〈生存することをサポートする〉
(2)ケアは〈途絶えそうな関係をつなぐ〉
(3)ケアは〈小さな願いを聴き取り、実現する〉
(4)ケアは〈経験と願いを語る環境を整える〉*1
(1)生存することをサポートする

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成
これはご飯を食べるとか睡眠がとれるとか生存に関わることに加えて、「保清」と呼ばれる身体をきれいな状況に保つことも含まれるそうです。
また、子どもの居場所という文脈だと、失敗しても帰ってくることができること、ぶつかっても大丈夫な人がいることも含まれるそうです。
(2)途絶えそうな関係をつなぐ

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成
病気や障害など、社会的な不正義によって排除された人たちは、自分の気持ちや言いたいことを言えなかったり、届かない場合があります。そういう人たちが世界とつながること、声をかけたり、その人の言葉をなかったことにしないこともケアだと書いていました。
「誰もコミュニケーションをとろうとしなくなったら、意思を伝えられない人は世界の中で孤立する」と書いてあって、コミュニケーションしようとすることもケアだと書かれています。
(3)小さな願いを聴き取り、実現する

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成
病気や障害がある人はどうしても「治療を続けるか、やめるか」みたいな大きな選択を迫られることが多いです。この本には、大きな意思決定とは別の、日常生活の中での願いごとを実現することもケアだと書かれていました。
(4)経験と願いを語る環境を整える

村上靖彦(2025)『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』を元に発表者が作成
本には「自らの傷や孤立を語ることができる場をつくることも、願いを語ることができる場を作ることもケアとなる。」と書いてます。私は、「これが辛かった」「誰もわかってくれない」「本当はこうしたい」「生やすくしてほしい」などと語ることができる場をつくることもケアと呼べるのかもと考えました。
対話とケアの関係
この四つの説明を読んで、私は全体的に対話的だなと思いました。
特に4つ目の「自分の傷や孤立を語ることができ願いを語ることができる場」というのは対話の場そのものとも捉えられます。
自分の傷や孤立、願いを語ることができるということは、私が思う理想の対話だなと思いました。
以前から「対話ってケアっぽいな」とぼんやり思っていたことが、この本を読むことによって「対話の場はケアの側面がある場なんだな」と確信に変わりました。
対話の場とケア、ケアと暴力
本の中に、「存在ができなくなることも、関係が途切れることも、願いをもてないことも、声が聴き取られないことも傷だ。つまりケアには暴力へと転じる可能性が内在している。」と、ケアには暴力に転じる可能性があるということが書かれていました。衝撃でした。
確かに、介護や福祉施設などのケアの場でも、支援者による暴力や虐待などが起きていることはニュースでも聞いたことがあります。
ケアって「いいこと」のように聞こえます。でもその中にも暴力の可能性があることに私はうわ…と鳥肌が立ちました。
先ほど私は対話の場もケア的な側面があるとお伝えしました。対話にケア的な側面があるということは、対話の場も暴力が起きる可能性を秘めているのではと思いました。
例えば、話を聞いてもらえなかったり、無意識な差別発言を受けたり、対話のいろいろなところで傷が生まれています。
辛いと打ち明けられたのに「みんなそうだから仕方ないよ」と言われてしまったら「わかってくれない」「せめて聞いてよ…」と思ったりとか、「女性なのにすごいね、若いのにすごいね」みたいな無意識な偏見による発言があったら、尊重されていないと思いつらくなることもあります。
この本を読んで、対話の場はケアを与え受け取りあう場なのに、傷つき傷つける場にもなりえるんだなと考えました。
対話と誤解、対話とリスク
私の周りには「対話することは良いことだ」という風潮があります。もちろん私も対話はいいものだと思っています。だからこそこうして対話について考えているわけです。
でも、対話の場にも暴力の可能性が含まれていると考えると、もう少し対話自体を慎重に考えたほうがいいのかもしれないと思います。
対話の場がいいものと見なされて、その結果対話がキラキラしたイケているものになっていないか。「対話はいいものである」ということに覆われて、対話の影の部分、暴力に転じる可能性や起こりうるリスクについて語られていないのではと思っています。
重ねてになりますが、私は対話の場はいいものだし、必要なものだと思っています。だからこそ、対話の場でおこるリスクも考えていきたいです。
SNUGは「対話は技術」ということをずっと言ってきていました。対話を技術と捉えるということは、対話はもっとよくすることができるということです。
対話を考える、学ぶことで、対話をよりよいものにしていきたい。よかったら一緒に考えていきませんか?
「グランドルール再考」 by 長谷川 友子

いろいろな場の場でグランドルールが設定されることが多くなっています。どんなグランドルールがよいルールで、どんなルールは避けるべきでしょうか。こうした議論があまりないなと思っていたので、皆さんと考えるきっかけにしたいです。
発表の背景
対話の場をつくっている中で、「そもそもグランドルールは必要ですか」「ルールは人を縛るものだからないほうがよいのではないか」というような声も聞いてきました。
でも、私はグランドルールを「人を縛るもの」とは思っていないんです。グランドルールは対話する上で必要不可欠なものだと思っています。
今回はこのグランドルールについて、詳しく考えていきましょう。
ルールへの誤解
ルールといっても、いろんなものがありますよね。ルールについて、私の経験からは以下のように思う人が多いという印象があります。
・ルールとはある人たちの命令である
・ルールである以上、従わなければいけない
・ルールは人をしばるものである
誰かの命令がルールのように変わったり、従わなければならないと感じたり、ルールによって窮屈に感じることは多いと思います。でも、本来のルールの意義は別なのではと思っています。
私は、ルールはそのコミュニティに関わる人、特に立場が弱い人への権利が保障されるためにあるべきだと思っています。そのコミュニティのふるまいや正しさは、特定の人でなく、ルールによって決められたほうがよいと思います。
ルールによってその場が成り立つということは、権力を持った人や誰かの気まぐれや意向に左右されないということです。
ある人が正しさや振る舞い方を判断するとなれば、関わる人はその人にどう見られるのか、いつどんなことを言い出すかわからず、怯えたり、顔色を窺ったりして過ごさなくてはいけません。
だから、権力がある誰かの気まぐれや気ままさ(恣意性)を限りなく抑制するためにはルールが必要であると思います。
対話の場のルールとは
よって、対話の場においても、ファシリテーターをはじめとする権力を持った人の気まぐれや好みが限りなく抑制されるようなルールづくりを目指すべきだと思います。
そもそも、対話には「本当のことを言う」というルールがあります。これは当たり前と捉えられ意識されないかもしれませんが、とても大事なことだと思います。
例えば、対話が終わったあとで「実はあれは全部嘘を言ったんだ」と言われた場合、対話の場そのものが揺らぎますよね。
対話は「ある程度本当のことを言っている」という前提に基づいています。
ただ、この「本当のことを言う」というのが、現実問題難しい。人と人との間には利害関係もありますし、本当のことを言うことがリスクや脅威となる場合もあります。
だから対話の場づくりというアプローチがあるのだと思います。
私は、対話におけるルールとは「参加者の権利を守るものでなくてはならない」と思っています。でも、対話の場でなくても、そもそも人は本当に思っていることを言う権利がありますね。もちろん、ヘイトスピーチや差別は論外ですが。
対話の場のグランドルールは参加者が本当のことを言えるものでなくてはいけないし、本当のことを言うことで誰もが不利益を被らないようなものでなければいけません。
もし対話の場の中で不利益を被ったら、助けを求めたり、「それは不正義だ」「それはルールに違反している」と指摘したり、周囲に認識されたり、助けを求められるようなルールであるべきです。
言われて嫌なこと、許せないことは人によって異なります。ただ、それがあってはならないことであったのかどうか、誰かの感覚ではなくルールによって認識され、助け合える仕組みであればと考えています。
だから、対話の中で何かトラブルや不正義が起きたとき、「それはグランドルールに反していますよね」と言い出しやすいルールがよいグランドルールなのかなと思います。
理想は参加者同士でルールをつくること、だが…
究極、というか、本来は参加者同士でその場のルールをつくることが理想的だと思っています。
ただ、現実的に考えたときに、時間がない、お金がない、日程が揃わないというのが現場のリアルかなと思います。
だからこそ、限られたリソースをもとに対話の場をつくっていくをしていくためには、社会的公正に基づいたルールづくりが必要です。
現状のグランドルールから見えるもの
ここからは、既存のよく聞くグランドルールを考えます。
・人の話をよく聞く
いろいろな場で、「話をよく聞く」ということがグランドルールとなっています。ただ、「よく聞く」って、どういうことでしょうか。
話しが聞かれないことは確かに暴力的です。しかし「よく聞いたかどうか」は他者から見てわかるものではないので、測りようがないように思います。そうなると、その場で起きたことを捉える言葉としては曖昧すぎるのではと思います。
態度で「あの人はよく聞いていなかった」と判断することにつながってしまうリスクがあります。
・相手を否定しない / 否定的な態度を取らない
「相手を否定しない」「否定的な態度を取らない」とうことも対話の場のグランドルールとしてよく見ます。しかし私は、対話の中には否定したほうがいい場面もあると思っています。差別発言や偏見に基づいた発言は許されるべきでありません。また、マイクロアグレッションもできるなら発されるべきでありません。
否定的な態度を取らないということはある場面では大事かもしれませんが、万能ではありません。
社会に不公正がある以上、「否定しない」というルールは対話における暴力的なことを温存することにつながる可能性があります。
また、私は参加態度は自由であるべきだと思います。態度で人をジャッジしてしまうのは、参加者同士の監視を強めてしまうおそれがありますし、その場に適応できない人の居場所をますますなくしてしまうおそれがあります。
・発言は平等に
基本的に対話の場が誰にとっても平等で、公正であるという世界観のルールもたくさんあるように見えます。
「発言は平等に」などは、みんなが話すことができる前提がありますし、平等な場はすぐにつくることができるという楽観的な側面もあるのかなと思います。
ルールにすべきなのは、どのように平等や公正をつくるかという具体的なことであるべきではと考えています。
・建設的な対話にご協力ください / この場を楽しみましょう
「いい場をともにつくりましょう」「この場を楽しみましょう」とか「建設的な対話の場をつくりましょう」ということがグランドルールであるときもあります。
しかし私は「いい場」とか「建設的である」ということは誰が決めるのだろうと思ってしまいます。
これらのルールは、つくり手が「こんな対話の場になってほしい」というある種の願いが投影されているのだと解釈しますが、対話のつくり手が想定していなかった参加者を排除してしまう可能性があります。
・何を言ってもいい / 聞いているだけでもいい
「何を言ってもいい」「聞いているだけでもいい」「まとめなくてもいい」「意見が変わってもいい」というグランドルールもあります。これは一見よいルールに思えます。
しかし、これはそもそも人として生ていく上で、また何かに参加する上での大前提です。「ここの場では何を発言してもいい」というのは、「ほかの場では何を言っていいわけではない」というメッセージを送り出してしまうのではないかと思います。
ただ、当たり前のことが難しいのも現実です。グランドルールではない、対話の場の意図説明や過ごし方の説明の場面で、これらの説明を補うことができそうです。
よいグランドルールとはなんだろう?
これらを踏まえて、現状私は対話の場のグランドルールは以下の点が重要かなと思います。
・具体的である
・明記されている
・参加者が覚えることができる
私がグランドルールを再考したかった理由は、既存のグランドルールが、本当に思っていることを言うという対話という行為を支えているだろうか、という疑問からです。
現状、対話という言葉が使われ、グランドルールが設定されている場が増えているにもかかわらず、グランドルールについての議論が起きているように見えません。
公正な対話を目指して、誰かの気まぐれ、好み、その場の雰囲気に依らない、よりよいルールをともに考え、実践していきたいです。
レポートの終わりに
さて、今回のSNUG DAYのレポートはいかがでしたか。…と気軽に聞くことがためらわれる文字量となりました。
また、今回初の前編、後編に分けてのお届けとなりましたが、いかがでしょうか。お読みくださった方、本当にありがとうございます。
「SNUG DAY vol.6 対話と技術」のレポートは「まさかの一万字超え!」などと言っていましたが、今回は二万字に迫っています。
それはさておき、SNUG DAYという自主企画を始めてから一年が過ぎ、7回目の実施ができました。これは参加してくださる皆さん、そして気にかけてくれたり、日々支えてくださる皆さんのおかげです。
これからもSNUG DAYは、公正な対話をスタンダードにするため、対話について議論できる場として社会にひらいていきたいです。
これで「SNUG DAY vol.7 対話と誤解」発表内容レポートを終わります。
unitsnug.hatenablog.com
2026年7月10日(金)
対話の場づくり屋 SNUG
代表 長谷川友子